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耕英について


・地勢
  宮城県栗原市栗駒の地区で、秋田と岩手の三県にまたがる栗駒山(1,627.4メートル)の南東側中腹、標高450〜850メートルの位置にあります。
  10月中旬に初霜、11月上・中旬に初雪が降り、積雪は2月が最高で2〜3メートルにもなります。




・歴史
1.耕野と満州
  戦後まもない1947年(昭和22年)より、満州(現中国東北部)からの引揚者らが入植し、開拓が始まりました。
  それ以前の耕英は駒の湯温泉の一部を除き、密集したブナの大木に覆われた国有林で、ふもとの町とは細い登山道で結ばれていました。ここを訪れる者といえば夏山登山者と湯治客のみでした。


満州と日本の位置   耕英の歴史を語る上で、耕野村(現宮城県丸森町耕野)と満州開拓、それに至る背景を欠かす事ができません。
  満州へ移民は人口増加や農地不足等の諸問題を解決しようとする政府の国策によって強力に推進されました。
  村を分けるような形で集団移民する分村が耕野村でも計画され、満州に開拓団が送り込まれました。


耕野と耕英の位置   耕野村の満州分村計画は一応の発展を遂げたものの、1945年(昭和20年)、ソ連による突然の参戦と日本の敗戦が運命を変える事となります。
  団員達はソ連軍から追われ、家族を失い、命からがら満州より故郷へ引揚げてきました。しかし、全員を狭い耕野村に収容するのには限度がありました。
  そこで耕野村の八島村長と第二次開拓団長であった菅原兵市氏の父・駒の湯温泉の菅原兵三郎氏の尽力により、栗駒山中腹の国有林への入植が決まります。
  1947年(昭和22年)、先遣隊による仮入植が始まり、翌年に開拓地として正式に許可、1950年(昭和25年)頃より周辺の栗原・登米地域からの入植者も増えていきました。



2.地名の由来
  元から耕英という地名があった訳ではありません。
  入植するのにあたって、開拓団の名称が必要になり、「耕野よりさらに英(秀)でたものにしよう」という願いから名付けられました。



・産業
  夏でも低温で冷涼な気候を生かした、イチゴや大根などの農産物、養殖発祥の地でもあるイワナなどが特産です。
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